テツガクのヒトシズクのウラバナし
“ふくろう”とかの動物の方が、お互いの仲間意識があって、
お互いの違いを超えて助けあって生きているのだとしたら、
実は動物の方が人間より“エラい”のではないか?
そう、思えてきたりします。
もしかしたら、今の人間が獲得している「ことば」とか、
「安全・安心」とかいうものは、生物にとっては、
“いらない”ものなのかも知れません。
動物は、「ことば」がないからこそ、お互いのつながりを
わかるし、
毎日生きるか死ぬかで「安全」でなく、
「安心」できないからこそ、命の尊さもわかるし他者のことも、
尊重しようとする心もでてくるのではないだろうか。
そして、だからこそ、「安全・安心」を人間が得てしまって
いるからこそ「その反動として」、
また、「ことば」があるからこそ考えの違いとかが明確に
わかるからゆえにも、
“戦争”がユウハツされてしまうのではないでしょうか。
ただ、人間に、「ことば」「安全・安心」が得られていると
いうことは、
それなりの“みこみ”があるということ ----------------------
つまりは、それらを、“お互いの違いを超えて、助けあって生きる”
方向につかうならば、
その時はじめて、
人間が、地球を安泰に導いていける存在になれるのだろうし、
だからこそ、
動物には得られない「ことば」「安全・安心」を今、人間は得ることが
できているんじゃないか。
そう思えるならば、その瞬間からそれらの“重み”が、・・・
違ってみえてくるのかも、知れません・・・
そして、それらを・・・
自分達だけが享受していては、いけないのだろう。
他の存在に、“広げていく”方向にそろそろ・・・
“もっていく”必要が、あるのではないだろうか。
というか・・・
自分達人間どうしでさえも、“争ってしまう”
この、状況・・・。
「ことば」「安全・安心」はこのまま、
お互いを“分かつ”ままの使われ方で、
終わってしまうのでしょうか・・・?
(C) 2007 YO-chang Kenkyu-syo.