テツガクのヒトシズクのウラバナし
我々の姿をはじめ すべてが「かきねを超えていく」・・・
そうだとしたらその様は、
我々のこころの中の様にも
通じるものがあるだろう。
我々がなにげなく触れるすべての事柄が、
ポタっ、 ポタっ、 ・・・ と
コーヒーメーカーの中でしたたりおちる滴の
ように、たまっていって、
今の私たちの人格というべきものをつくって
いるように思う。
だから、やはりなにげなく触れているうちに、
それが、何かのきっかけで人格というか
心のあり方に影響を及ぼすこともあって・・・・
その時、やはり「かわって」いくことに、何か
とまどいというか、たとえそれが自分にとって
良い方向に進んでいけるのだとわかっていても、
その「かわる」ことにブレーキをかけようとしてしまう
自分自身がいたりしませんか?
つまり、やはり「かわる」ということは、
本能的にも、とても勇気がいることで
すごく、エネルギーのいることなんじゃないか。
“つまり”それは、新しい自分を、生み出すこと。
赤ちゃんをうみだす時の陣痛みたいなもの
なんだろう。
たしかに「かわる」ことは、つらい。
でも、つらいからこそ、その先に
「かきねをこえた」
新しい自分が、生まれる -----------------------------
そして、すぐには何ものも、「かわれない」。
時間が、かかる・・・
それも じれったくて、イライラするのだけれども、
そのイライラを超えれば、やはり「かきねをこえた」
新しいものが --------------------------------------------
きっと、今の世界は、
地球のこころがイライラして、つらい状態
なんだろうけれど、
何より、“構成員”の私たち1人ひとりがまず、
自らの心のそういう状況を乗りこえていけること ------------------
そこに何か、地球のゆくえにも
影響するものが、あるのではないか・・・
その為にも・・・
つらいだろうけれど、なんとか
自分なりの方法でそのつらさに耐えて、
のりきっていけたら・・・
自分だけじゃ、ないから ----------------------------------
そんなふうにおもえたら、・・・
いいんですかねぇ・・・・・
やはりつらいものは、「つらい」んですけど ----------------------
つらい時、どうするか。
そこに、“かかっていく”んでしょうか - - - - - - - - - -
「やはり」。
(C) 2007 YO-chang Kenkyu-syo.