テツガクのヒトシズクのウラバナし
自らと違うものとの間に、同じもの、
例えば1つの同じ“志”をみいだすと、
より
、
「頑張ろう!」 と思えるのではないか ――――――――――
そう考えた時、それを世界の「平和」をめざすことにも
つかえないだろうか?
ただ、物事には、例えば地球でも太陽が照る裏では闇が広がっている
ように、相反する側面が同居しているのではないだろうか。
そして 一つの側面をめざそうとしたとき、他の側面を、
無視したり、力ずくで押さえ込まなければならないと思いがちな気がする。
しかし、すべてを太陽で照らしてしまったら、
「闇」というものがなくなってしまったら、
かえって困ってしまう場合もある。
そして 人間だって「ねむる」時間が必要なように、
「闇」も、必要だからこそこの世に存在しているのだといえよう。
だから、その相反するものを、両方認めつつ「適切に」扱っていくことが
大事なのではないだろうか。
つまり、「平和」な状態と、「ケンカしてる」状態。
でも「ケンカ」だって、「平和」になる為には必要な場合もあるだろう。
ただその「ケンカ」が戦争という、極端な状況に陥ってしまっているのが
現状で、それが“問題”なのではないかと思える。
どうしてそういう極端な状況に陥るのだろう?
それは、「適切に」対応すれば、きちんと相手に伝わって「おさまる」こと
が“信じられない”・“認識できていない”ということもあるのではないか?
国家間のやりとりは、日常の人間関係にも通じているのだと
私には、思える。
だからまず、1人1人が日常でそのことを実感していくことからはじめる
必要があるのではないかと私は思う。
例えば、わかってもらえないとすぐ暴力に訴えなくても、話のしかたで、
わかってもらえる場合もあるのだということを、実感していく・・・
それを、重ねていければ、いいのでしょうが・・・
問題も、ある。 強く出て、時には“暴力”をしないと、“なめられる”という
こともあるだろうし、こころをお互いがひらいていないと、話し合いにもな
らないだろう。
だからこそ、“信じられない”んだろうけれど ----------------------
ただ“暴力”や“武力行使”などというのは、少なくとも、最初から使うもの
ではないと思うし、使うにしても、「相手への配慮」を念頭に置いて使う必
要があるだろう ――――― それらはその“配慮”ができる心の余裕があ
ってこそはじめて「使わざるを得ない」手段なのであり、致命的なダメージ
を負わせるのは「違う」のではないかと思える。
そしてとにかく、お互いが“心を開き”わかりあうためには、
時間がかかる。
お互いが“ちがう”からなおさら、
早急な解決は、奇跡に近い。 ということを前提にして、
とにかく「辛抱強く」話し合いを進めていく・・・
さらに、「こころから謙虚に、下にでる」ということ・・・
そうした“問題”の解決の「手助け」になると思われること -----------
“心の余裕”、そして「辛抱強さ」、「下にでる」 ・・・
等の“加減”を体得するためにも、
適切な「話し方」を、いろんなものと「関わっていく」、
つまりは「まずは」社会生活を送る中で、
自ら「あみだしていく」必要が、あるのだと思う。
たしかに口でいうほどこのことは、簡単にはいかない・・・
それが簡単にできるなら、「平和な」世界はとっくに来ているはず
だろう。
でも、たとえ実現できず挫けてばかりなのだとしても、
心がけているのといないのとではやはり、違いがあると思える。
できなくともあきらめず、自分のできるところからやり続けていれば・・・
いつか、
冒頭の仮説が生きて・・・
それが広がっていけるかも知れない。
そう信じて、
何よりそういう「私が」、そのことを実感していきたいと
“めざしている”ところです。
最後に思ったのですが ・・・
今の世界の状況は、まさに、その「模索段階」なのではないか ――――
ならば、それこそ“辛抱強く”見守るしか、ないのだろうか・・・
その先に、「平和」が広がっていけることを信じつつ。
(C) 2007 YO-chang Kenkyu-syo.