話の一滴(ひとしずく)

ヨーチャング研究所
YO-chang Kenkyu-syo


           今回のテーマは「鉄砲伝来」です。

       (左の、写真があるページはそこをポイントすると、
        テーマが表示されます。
        また、この「話の一滴」にリンクもしています。 )


    <別枠>

    “話の一滴”の“ウラ”   テツガクのヒトシズクのウラバナし





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    <内容>

    ○“なげかけ”

    ○鉄砲伝来について
    ○鉄砲の流れ・分類
    ○鉄砲の定義
   

    ○“なげかけ”の「こたえ」

      ≪参考文献・資料≫


    ○テツガクのヒトシズク

     (主にテーマの<内容>から
      独自のテツガクを展開させてゆくコーナーです。)


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  ○“なげかけ”


      ---- 鉄砲は日本にいつ頃伝来したのか? ----





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  ○鉄砲伝来について


    我国が鉄砲(アルゲビュース Arguebuse)を得たのは、非常に重要な文化史的
   な意義を持つと考えられる。

   16世紀にヨーロッパ人は世界の到るところに携帯火器を持ってその足跡を印
   しているが、土着民が彼らの持っていた火器に注目して、その価値を認め、こ
   れを獲得して、倣製して、忽ちの間に、これを普及させた民族は日本人以外に
   は見あたらなかった。いいかえれば、鉄砲の伝来は、日本文化の根本的な特長
   の一つを物語っているものであるということができます。

    ちなみに、アラビア人は、最も早く西洋火器を知り、かつ利用したが、これ
   を摂取し、発展させることができず、インド人も同様であった。中国人は 日
   本より25年も前に西洋火器を知ったようだが、自製するのに13年間もかか
   り、また島銃を日本人より得て、自製するのに32年間も要したようである。

   しかるに日本人は ポルトガル人の持っていた鉄砲をひとめ見て、直ちにその
   真価を認識し、これを得るために惜しむことなく大金を投じ、またこれを手に
   してから僅かに数十日にしてその使用法を修得し、1ヶ年たらずでその製作法
   を極めたという事実は、実に驚嘆に値することと考えられます。


    この鉄砲は世界の情勢を一変させるほどの底力を持っていた。これを保持す
   るか否かで国力の差を生じ、わずかに半世紀ぐらいで、両者の間に政治的経済
   的格差を生ずるに至り、数世紀を経ては、もはやその差は到底越えることので
   きないほどのものであった。

   前述のこのような直感こそは、日本人の持つ重要な特質で、この基本的な日本
   文化の性格は、その後に至っても続けられていて、多くの類例を示し、幾多の
   事実を残していることは指摘することができる。

   極言すれば、天文十二年の鉄砲の伝来に類することが、20世紀の今日に到る
   までも繰返されているということができます。


    日本の古い記録によると、鉄砲伝来の年代はいろいろな説があり、今でも明
   確に指定はされていない。しかしあまりそれらの議論に入り込むのは得策では
   ないと考えられるので、一応諸説の中から、天文十二年(1543)を鉄砲伝来年代
   として、その根拠の資料として次の四点をあげ、資料的価値の順位を示してお
   きます。

     1.種子島家譜
     2.鉄砲記
     3.ガルワノ著 新旧発見年代記
     4.ピントの遍歴記


    さらに年代決定を裏付ける資料としては次の三点もある。

     1.八坂氏系図
     2.芸辻文書中の鉄砲由緒及び津田流鉄砲口訣(こうけつ)記
     3.国友文書中の国友鉄砲記


    さらに、鉄砲の国内流布に関し重要な主流と認められる事項は次の5点が考
   えられる。

                (主要人物)
     1.種子島鉄砲鍛冶: 八坂金兵衛清定
     2.根来寺と鉄砲 : 根来寺杉之坊明算(津田監物の弟)
     3.堺鉄砲鍛冶  : 橘屋又三郎(貿易商)
     4.国友鉄砲鍛冶 : 国友藤兵衛一貫斎
     5.島銃の伝流(鉄砲の中国,朝鮮への伝流)

      (注)島銃とは鉄砲のことで、中国人朝鮮人はそう呼んでいた。



    以上、鉄砲伝来についての主な流れを記述したが、鉄砲の仕様、構造、製作
   方法など、鉄砲史的なことは、ここでは省略しましたので、それらの詳細につ
   いては下記に列記する参考文献・資料を見ていただきたい。

   ここでは、あくまでも鉄砲伝来の流とそのインパクトについて記述しました。



  ○鉄砲の流れ・分類

    鉄砲の発達は、長い年月をかけ漸次改良が積み重ねられて来たもので、一つ
   の構造様式をもって区別することは難かしいが、一応、中心打式(Center fire)
   の金属薬莢(やっきょう;Metar Cartridge)を使用するようになったものを現代
   式、それ以前のものを古式と呼ぶことが最も常識的と考えられる。時代的に見
   ると、大略慶応三年(1867)以前のものは古式、それ以後のものは現代式と区別
   されている。


    世界で、1300年代に初めて出現した鉄砲は、筒型の火器で、細長い底の塞が
   った筒に、火門孔が開けられただけの簡単なものであった。しかしその後 発明
   された火縄銃になると、現代の鉄砲と本質的にはなんら変わらないくらいのも
   のであった。つまり現代の鉄砲は、基本的には、銃身、撃発機、銃床、照準具
   の組合せからできていて、これは500年前でも変っていない。ただ、その発達過
   程で、前装から後装に、滑腔(かっくう)から施条(せんじょう)に、火縄からひ
   うち石さらに雷管へと逐次改良されてきたのである。つまり何世紀もの間、世
   界各地で、互いに関連もなく生まれたアイデアがひとつに結びついて、理想的
   な鉄砲が出現したのは、今から100年ほど前の19世紀中葉と考えられる。

    我国においては、天文十二年(1543)に大隈の種子島にもたらされた火縄銃が
   最初で、これが全国に普及し、合わせて日本での模倣が進められたのである。
   以来 300年にわたって鉄砲が製作され、使用されてきたのである。しかし19世
   紀になると、ヨーロッパから新しい銃器が入って来て、注目され、安政以降の
   物情騒然たる世相は、300諸侯をして、欧米の銃器獲得競争に乗せられることに
   なった。日本は欧米諸国にとって絶好のマーケットで、各国製の200種以上もの
   銃器が持ち込まれることになった。


    しかし明治初年の内乱を前にして、その大多数が整理され、わずかに残され
   たものも、今大戦後、アメリカ占領軍による押収や、その後の取締りによって、
   世界にも稀な文化財のあらかたは消滅してしまった。

   さらに古鉄砲は、今日見ることもまれで、資料も乏しく、使用される用語も、
   100年以前にすでに死語となったものが多く、調査、解明には困難と考えられ
   ている。



  ○鉄砲の定義


    ここでいう鉄砲(=小銃)とは、火力兵器(火器)、つまり火薬の力で弾丸を飛
   ばす武器のうち、小型のものをいう。

    どの程度をもって小型としたらよいか、例をあげてみる。


    1.旧陸軍  小銃: 口径11mmまで
            砲: 上記を超えるもの

              ☆これだと古い火縄銃はほとんど大砲になる


    2.弾丸の重量  2匁5分筒,口径 11.0mm
               6匁筒,口径 15.8mm
              10匁筒,口径 18.7mm
              20匁筒,口径 23.6mm
              これ以上は大筒(前田家)

              ☆この分け方も一般的でない


    3.1人の力で運搬・操作可: 小銃

              ☆これだと大筒でも1人で抱えて撃てるものは
               小銃となる


    以上のことから結局、具体的な定義はむずかしいので、常識の範囲でとらえ
   ておくよりほかにないと考えられる。

   なお 鉄砲は昔「鐡(鉄)炮」とかかれることが多かった。

   また「鐵(鉄)放」、「手火矢(てびや)」、「種子島筒」などとも称されていた。

   さらに外国の状況や近代以降を扱う場合には、鉄砲といわずに、「小銃」とか
   「銃」とか言われているが、いずれも鉄砲と同じ意味に用いられている。



  ○“なげかけ”の「こたえ」


     ---- 鉄砲は日本にいつ頃伝来したのか? ----



    鉄砲伝来の議論は明治以来、現在に至るまで種々続いています。

    その主な説は次のものがあります。


     1.天文12年(1543)種子島に伝来

     2.天文12年以前に中国や朝鮮の原始的手銃が伝来していた

     3.種子島伝来以前、琉球にも伝来していた可能性あり


    しかし 現在最も有力な説は、「鉄炮記」を根拠にした天文12年に種子島に
   伝来したとする説です。

   ただこの「鉄炮記」は伝来から60年後の著作であり、種子島久時が祖父時堯
   (ときたか)の功績を顕彰するために編纂(へんさん)したものといわれている。

    そして現存する南蛮筒やそれを模倣した異風筒の構造からして、日本に伝
   えられた鉄砲はヨーロッパのものではなく、東南アジア方面のものと考えら
   れ、鉄砲を伝えた主体勢力は、当時東南アジア方面で活動していた倭寇(わ
   こう)とみられている。倭寇の活動は広い地域におよんでいたので、鉄砲は
   種子島を含めた西日本地域に分散波状的に存在していたと考えなければなら
   ないと思われます。

    以後種子島では、鉄砲が伝来するとただちにその模倣製作が行なわれ、そ
   の情報を知った紀州(和歌山県)根来(ねごろ)寺杉坊(すぎのぼう)、津田監物
   (けんもつ)らは部下を種子島につかわして鉄砲を入手し、根来寺門前西坂本
   に居住する鍛冶(かじ)、芸辻清右衛門に製造を行なわせた。さらに種子島家
   より島津氏や室町幕府に模倣製銃が献上されるなど、中央への伝播は比較的
   早かったが、兵器としての効果が認められるようになったのは、伝来後32年
   も経った、天正3年(1575)の長篠の戦いにおいてで、多量の火縄銃を装備し
   た織田信長の鉄砲隊が天下無敵といわれた甲州武田氏の騎馬隊を密集弾幕の
   中に捕捉殲滅(ほそくせんめつ)してからだと言われている。

    これ以後、鉄砲の登場は、強者と弱者の力量差をなくし、鉄砲を多量に保
   有することが覇者への道とされたので、戦場から従来からの英雄豪傑のロマ
   ンが失なわれたといわれています。


    なお、鉄砲伝来とそれを介したヨーロッパ人との接触は、それまでは本人
   がまったく知ることのなかった異質の文明との遭遇であり、ヨーロッパ科学
   技術に対する驚嘆は、日本の近代化への強いインパクトとなったと考えられ
   ます。



  

    ≪参考文献・資料≫


    種子島銃          洞 富雄   淡路書房新社  1958.4

    火砲の起源とその伝統  有馬成甫  吉川弘文館    1962.3

    火縄銃(新版)        所 荘吉   雄山閣出版    1993.4

    歴史のなかの鉄炮伝来 国立歴史
                    民族博物館             2006.10

    鉄砲と日本人       鈴木眞哉   洋泉社      1997.9

    鉄砲をすてた日本人  ノエル・ペソン
                   川勝平太 訳  紀伊国屋書店  1988.9









  ○テツガクのヒトシズク


    鉄砲は、種子島を含めた
   西日本地域に広まったといわれている。


   たしか 黒船も長崎あたりにきたと
   いわれているように思うのだが ---------------------



   だとすると、西日本というのは、今の
   様々な文化がゴッチャになっている
   日本文化の“礎(いしずえ)を築いた”
   発祥地というべき場所、といえるのだろうか?





    もしそうならば、西とか東とか、という場所が、
   大いに何かの発展・衰退にかかわってくるというのは、
   ありうるのではないだろうか。(ex.風水)



   たしかに西は、たまたまヨーロッパから
   きやすい位置にあっただけの話かも
   しれないけれど ----------------------------------



   そして、昔はまさに“西”が、日本の
   中心となっていたし --------------------------





   じゃあ、東は今は栄えているのだけれども、
   歴史がなぜか、浅い気がするし、

   東京湾だってあるのに、なぜこなかったのか・・・



   ヨーロッパから単に、遠かったから。

   それだけなのだろうか。



   東というのは、発展しない方が良い場所だった
   のではないだろうか。

   その、昔の時代においては。



   今は飛行機があるから、
   何かが“輸入”されるのに西からだけ、と
   いうことはなくなったけれど・・・






   それに、東、つまり東京は、
   せせこましく密集している感じがあるけれど、

   都があった京都なんかは、すごくゆったり
   とした風情が残っている感じがする。



   つまりは今の世相がハンエイされているから、
   今の東京は“せせこましく、密集している”
   感じ、なのかもな。



  
   そんな、せせこましく、密集した所を中心と
   していろんな情報が発信されていっている
   訳だけど、

   だからこそ、情報も“狭い”感じが私にはするし、


   ある一定の価値観がいいとされる、つまりは
   閉鎖的で、

   懐(ふところ)の深さがまるで、感じられないよう
   にも思われてくる。





   もし京都が今も“首都”だったとしたら、

   「ゆとり」とか、「ロハス」とか、


   そんなことばが出現したりブームになったり、
   するんだろうか。






    
   


     
    
    

     
          
        



















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    “話の一滴”の“ウラ”   テツガクのヒトシズクのウラバナし





(C) 2007 YO-chang Kenkyu-syo.

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